藤原家隆 (左京大夫) (FUJIWARA no Ietaka (Sakyo no daibu))
藤原 家隆(ふじわら の いえたか、生年未詳 - 天治2年11月11日 (旧暦)(1125年12月7日))は平安時代末期の廷臣。
関白藤原師通の三男。
母は祖父藤原師実の家女房の平貞経の娘。
従四位上(または正四位下)、左京大夫、少納言。
異母兄に関白藤原忠実、参議藤原家政がある。
摂関家の子弟として生まれながら、母の身分が低く、また早くに父を喪ったこともあって、公卿昇任は果たせずに終わっている。
異母兄の忠実に近侍したとされ、忠実と同じく土佐守藤原盛実の娘を妻として、嫡子藤原成隆を儲けている。
また娘の一人(藤原璋子女房)が平忠盛の側室となって、平教盛を儲けたことでも知らていれる。
『中外抄』下巻第32条には、忠実の孫である興福寺別当覚継が出家の身にあることに不満を述べている。
それに対し、忠実の家司中原師元が「覚継は忠実の引き立てがあるから仏教界においても今日の地位を得ているのであり、たとえ俗界にあったとしてもその後ろ盾が無ければ、家隆の地位をも越えることができないであろう」と語ったとある。
摂関家師弟であったとしても必ずしも栄達できる訳ではないことの事例として引き合いに出されている。
後世、江戸時代前期において美濃国高須藩主であった徳永氏は、この家隆の末裔を称している。